バランス

「バランスをとることが必要」、これは僕のテーマではありますが、もしかしたらそれはアダム・スミスが「市場はいずれ需要と供給のバランスの取れた理想状態に至る」と言った(願った)ことと同じ理想論でしょうか。現在の経済学はなんだかんだ言ってまだその夢を見ているとのことですが、結局好況と不況の波は一点に収束する気配すら見せずに大きく波打っていることはご覧の通りです。
文化や風土や風潮も、極端から極端へと揺れ動くことは、景気と同じく、仕方のないことなのでしょうか。

「物語、制度、ゲーム、権力、フィクション、約束事、社会、共同幻想、宗教、言葉、規範、道徳、歴史…」これらを同じ仲間とし、まとめて「A」とします。
キリスト教が力を失ったとき、アメリカでは精神異常者が爆発的に急増した」とすれば、Aに「参加する、没入する、ノる」ことは、それが「楽しいから、暇つぶしになるから」というだけでなく、「正常」でいるために必要不可欠なことなのでしょうか。
という文章は、一面では当然のことであって、それは、「正常」とは、Aの枠の中から見て、それが自分達と同じか異なっているかという価値判断に過ぎないからです。だから、所属する集団によって「正常」の内容が違うことも当然です。
しかし一方では、それは言葉遊びにしか過ぎないということもあって、それは、明らかな「異常」というものもあるだろうということです。例えば、参加しない結果として、訳の分からない原始的なイメージに囚われて、極度の恐怖や不安に陥ったとしたら、それは本人にとって不都合であるという意味で「異常」です。
でも、もう少し考えてみます。

この十数年で、一切のA的なものの破壊が進んでいます。
政治家、医者、教師、官僚、警察らは批判にさらされ、権威は地に落ちています。
終身雇用は崩れ、「会社は家族じゃない」とCMでも言っています。
少子高齢化によって、年金制度への信頼も揺らぎ、頑張って働けば将来楽ができるという保証もなくなりました。
環境問題という足かせによって、大量生産・大量消費というライフスタイルにも限界が見えました。
良い学校から良い会社へという幻想も崩れました。
崩れているのに、学校は同じことをやっているので、子供はキレます。
権威もないので学級崩壊を起こします。
歴史は外交によってすぐに変わるものになりました。
古典物理学量子論相対性理論やカオス理論にとって代わられようとしています。
言葉や常識は「不条理系」の笑い…吉田戦車や松本仁志らによって、違った意味を持たされ、壊されました。
笑いとは硬直した常識を壊す強力な武器です。
ある一宗教だけで、社会の約束事や価値観を全てひっくり返すことができることが明らかになりました。そして、一個人だけでも、連続殺人を起こすことによって、それが可能であることが明らかになりました。世間やマスコミの過剰な反応は、自分の拠って立つ基盤が脆くなっていることに対する恐怖から来る、当然の行動でしょう。
これらは、留まることのない大きな流れです。
そしてそれには阪神大震災も大きく関わっているでしょう。どんなに確固たるものに見えていても、一瞬のうちに全てが崩れることが分かったからです。科学技術や文明は意外と無力でした。

一切のA的なものから自由であったら。
全ての制度やフィクションから自由であることはもちろん、言葉の生まれてくる夢と現実の間の領域にまで降り立つ。そこでは当然言葉から生じる自我や理性や欲望もありません。(「欲望」は今や社会的なものです。)
そこはきっとイメージや暗示や共時性の渦巻く流動的で呪術的な場所でしょう。無数の選択肢の前の宙吊り状態でしょう。
それが、あるいは「悟り」の状態なのかもしれません。
しかし、一方でそれは「狂気」でもあります。悪くすれば、妄想から来る恐怖から抜け出すことができなくなるかもしれません。また、本人は悟ったと思ってハッピーでも、誰ともコミュニケートすることができなければ、やっぱりそれは狂気です。
だから、そういうA的なものを抜け出した、自由な場に降り立ち(そこはカオスそのものでしょう)、そして再び戻ってこなければいけないのだと思います。
それは、「のりつつしらけ、しらけつつのる」ということでもあるし、「敢えてゲームに参加する」ということでもあります。
それは、A的なものが破壊されて無規範状態の現在、新たなAを作り出さなければいけないということにも繋がります。
人は作っては壊すもので、極端から極端に走るものなのでしょうか。
いずれにしても、そうしてAが壊されて不安定な今、人を狂気から救い出すのは、具体的・個人的な「人」とのつながりしかありません。コミュニケーションこそがいつでも一番大切なことです。
そして、それは、人間が社会的な生物であって、言葉を捨てて野生に戻ったら自然界では最も弱い生物でしかないという現実がある以上、変わることはないのでしょう。
そして、役に立つのは打算的な関係ではなく、本当の関係だけです。まさに「愛こそすべて」。ジョンレノンは正しいと思います。

…どうやら、インドでの夜に分かったことは、こういうことのようです。そのとき一瞬にして分かったことが、五年経って今ようやく言葉にして説明できているような気がします。
(時期もちょうど今ごろです。)

夜に物を考えると、取りとめもなく言葉が浮かんできます。
昼間に考えるとあまりにあっさり結論が出るというのに。
良いやら悪いやら。不毛という点では悪。考えが広がるかもしれないという点では良し。
っていうか、脳内物質出すぎてやばいです。
哲学から宗教へ。
この先いつか出家してしまうかもしれません。非常に不安です。