今日のトキメキ☆夢日記

「都内の閑静な住宅地の奥。広く瀟洒な作りの一戸建て。
そこに遊びに来ている。
住んでいるのは、旧華族のような名門の家柄の家族。
おばあさんと若い娘がいるようなイメージ。
静かに、上品に暮らしている。
庭は広く、木々が生い茂っている。一面の緑。木漏れ日。
先の方まで歩いてみる。
すると、突然轟音が正面から真下に向かって響き渡る。
気がつくと、庭と家の真下を高速道路が通っている。
東京も高速道路の開通によって景色が変わってしまった。
寂しい気分になる…。」

最も奥深い場所が外部に開かれているイメージ。
それは例えば自分の心の最も奥底の部分を、こうしてインターネットを通じて不特定多数に公開していることに対応している。かつてない体験に対する戸惑いや恐れがあるのかもしれない。

明らかに僕は今このサイトに時間とエネルギーを注いでいるんだが、こういう、相手のリアクションの少ない(ていうかほとんど誰も見てない、)一方的な情報の提供というのは多分初めてのことで、そのことに対しては僕は明らかに戸惑いを感じている。

人が他者に対して与えることのできる「エネルギー/熱/愛/情報…」の総量には限りがあって、誰に対してどの程度与えるかというのは個人が選択すべきものなんだろう。一番身近な人のために使うのか、友人のために使うのか、仕事のために使うのか…。
いろいろあるんだけど、そんななかで今僕はよりによってこうして誰も見てないページのために結構な量のエネルギー(他)を捧げているわけで、そう考えるとなんだかなあと思っているわけなのだ。

でも人は多分与えた分だけ別のところから与えられたりもするわけで、それは多分水泳の息継ぎの極意と同じようなもので、つまり「息を吐かなきゃ吸えない」ってことで、そうやってバランスは取れているんじゃないかと思う。
でもそのエネルギー(他)のやり取りの仕方は、多分「双方向・等価交換」ではなくて、吐き出したところと全然別の場所から別のものをもらうといったような、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な、「息を吐いた代わりにごはんを食べた」みたいな、そんなつながり方をしているような気もする。(よく分からないが。)

つまり人間の活動を全て広い意味でのコミュニケーションと捉えてみたら面白い、という話で、コミュニケーションとは「エネルギー/熱/愛/情報…」のやり取りである、という話だ。

誰かに優しい言葉をかけたら、素敵なフレーズに出会ったとか。
仕事でエネルギーを使い果たしたら、自然の美しさが目に飛び込んできたとか。
こうやって人知れず文章をアップしていたら、励ましのメールが来たとか。

だから誰か僕に愛をください。<そんなオチか…。