「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

(ネタバレあり。)
泣いた。最後に。
ビョーク演じる主人公に、次々にこれでもかと襲いかかる不幸。場内からはすすり泣きの声が聞こえていたが、僕は途中では全く泣けなかった。不幸過ぎて、胸が苦しく重くなるだけで涙にはつながらなかった。
しかし、全く救いのない話で、最後にたった1つだけある救い。それによって、今までの重さの感覚が全て涙になってあふれ出た。
上質なカタルシス
こんな映画がヒットするのは、やっぱり現代はみんな大きなストレスを抱えていて、カタルシスを求めているということなんだろう。

ミュージカル映画である。
タモリの影響か、ミュージカルは好きじゃない。いきなり関係なく歌い出す、そのことに必然性が全くなく、馬鹿馬鹿しいからである。
しかし、この映画では受け入れられた。
理由の第一は、途中でミュージカルシーンによって気が紛れないと、話が不幸で重過ぎて、耐えられないからである。ちょうどいい感じで気がそらされた。
第二には、ミュージカルシーンに必然性があるからである。
不幸な現実世界に対し、ミュージカルのシーンは主人公の空想の世界であり、そのなかだけで主人公は世界の主役となり歌い踊ることができる。
現実世界のシーンのドキュメンタリー調の映像に対して、ミュージカルシーンのきれいにカメラ割りのされた映像。主人公ビョークの現実世界での不細工な顔に対して、ミュージカルシーンでの不思議な魅力。その対比が続く。
ダンサーインザダーク―暗闇の中で、そして空想の中でしか、主人公は自由に踊れない。輝くことができない。
しかし、最後のシーンになって、ようやくその二つの世界が交錯して一つになる。
最後のシーン、それは絞首台の上。
死刑が執行される直前の正にその時に、主人公は、そのためだけに生きてきた目的が達成されたこと――息子の目の手術が成功したことを知り、初めて現実の世界で歌い出す。空想の世界で歌われていた歌が、絞首台の上で、拘束具に縛られた状況の中で、初めて現実の世界に溢れ出す。世界が1つに結びつく。
しかしその次の瞬間、刑は執行され、主人公は宙吊りになる。そしてカーテンが左右から閉じられる。そして、幕は閉じられる。

書いていてまたちょっと泣きそうになってくる。
99%救いがない中で、ほんのわずかだけ救いがあるっていうのが泣ける。
しかし、本人にとっては、ただその一点だけが叶えばいいということはあるのだ。
それさえ思い通りになれば、あとはどんなに世界が不条理であっても、どんなに残酷な運命であっても構わないという一点が。
そして主人公にとってそれは息子の視力であり、願いが叶ったことの象徴として、手渡された分厚い眼鏡がある。この眼鏡には主人公が命をかけて願った思いが込められている。

それにしても、時代は泣くことを求めているのだろうか。
僕個人としても、最近とみに涙もろくなって閉口しているのだが、テレビのバラエティ等を始めとして、泣かそうという番組が増えている。つまりみんな泣きたいと思っているということだろう。10年前には考えられなかったことだ。人は景気がいい時には笑いたがり、不景気なときには泣きたがるということか。
しかし、僕個人とこの風潮とのリンク具合はどうしたわけだろうか。
と思っているところに、高校生くらいの集団。
「すげえつまらなかったな。」
「なんでこんなに混んでるんだろうな。」
「まだ観てないからつまらないって分からないんだよ。」
なんて会話を交わしている。

そうか、やっぱり「子供」には分からないのだ。
僕が涙もろくなったのは、歳を取ったからなのだ。
そして、僕らの世代は人数が多いから、僕らの世代が必要とするものが、需要が大きいからヒットしてしまうのだ。だからそれにあわせてまたそういったものが提供されるのだ。こうして影響を与え合って世界は動いていくのだ。
可哀想に、だから今の高校生などは、僕らにあわせて動いている世界につきあわされ、ヒットしているに全く面白くもないものにつきあわされることになるのだ。
そして、世界は面白くないと思ってしまうのだ。
そして、世界に絶望し、キレたり、切ったり、成人式で暴れたりするのだ。
それを防ぐためには、やっぱり高校生くらいが好む番組や映画なども増やしていかねばならないのだ。
今の高校生が好むもの・・・人殺しか? <ブラックジョーク♪