ベルセルク

ベルセルク」という漫画がある。
その途中で主人公は、「魔」の世界を見る。そしてそれ以降主人公の世界はねじれ、今までとは景色や持つ意味が変わってしまう。
僕の世界はインドで変わってしまったのかもしれない。
あの夜、僕は生の螺旋階段を登り、1つずつレベルが上がっていく夢を見た。
それは夢ではなかったのかもしれない。
それ以降、僕の世界はあまりに伏線が張り巡らされすぎていて、偶然がありすぎる。時間は均質に流れるものではなく、ところどころでリンクが張られ、つながっている。繰り返しがありすぎる。
あるいは「トゥルーマンショー」のように常に誰かに見張られ、ディレクターが指示を出しつづけているのかもしれない。だとしたらディレクターは絶対ハリウッド映画の監督に違いない。コテコテの伏線が張られている。

何の話か?
実は異動の内示がありました。それもフロアが変わる程度の。そしてその予感がありました。という話です。それだけの話です。
実に小さい。
爽快感すら漂うほどに小さい話です。

けれど。
誰かに心の中を見られていたのだろうか?
誰かに仕組まれたのだろうか。
と思ってしまうほどです。
あまりにも伏線が張られすぎているといるというか、タイミングがよすぎです。

詳しくは書きませんが、忙しいときには物事がいっぺんに重なる、ということもいつものことです。
これから急激に忙しくなるだろうと、なにかが起こるだろうと、思っていた矢先のことでした。

去年の秋くらいから、人生のエアポケットともいうべき、なんだか暇な刺激のない日々が続きました。その間、僕はこのサイトに余分なエネルギーをぶち込み続けました。そしてちょうど、形になってきたところでした。自分の多面性の核となる部分はだいたい形になり、あとは日々の日記によって膨らましていくか、というところまで来ていました。
多分異動後は忙しくなります。いろいろ重なり、多分非常に忙しくなります。そうしたら、日記くらいならともかく、ホームページを立ち上げようなんて気にはならなかったでしょう。ホームページ作成も異動も、これしかないというタイミングでした。

今の部署に来てすぐ、おかしいと思うことや、効率が悪いと思うことや間違っていることが余りにもたくさん目につき、ひどい怒りを感じました。常にストレスを感じ、年に4回くらいはダウンしていました。そしてそれから数年間、僕はふりかかる雑務をふりはらいながら、自分を追いこむようにイライラと考え、仕組みを作り出しては、身の回りのものをことごとく変えてきました。オレ色に染め上げてきました。(気色悪い。)
現在はIT革命の時代です。パソコンで自動化するとかデータベース化するとかグループウエアで情報共有化するとか言えば誰も文句は言いません。それをいいことに、若造のくせに片っ端から変えてしまいました。単にアクセスでデータベースを1コ作ると言っても、そこには様々な思想やこだわりが詰め込まれていますし、そこには過去に対する暴力的な否定も含まれています。
最大の狙いは、情報の公開と共有化でした。人が頭の中や引き出しに抱え込んでいる情報を、パソコンという道具を使って全て外に曝すことでした。
「管理」部門など、なくてもよいのです。全ての情報を公開すればよいのです。情報を抱え込む部署、人がいるからそこにブラックボックスが生まれ、権力が生まれ、おかしなことになるのです。組織が不透明になるのです。
知識は力です。しかし、保身のためにとつまらない知識を抱え込んでいても、腐るだけです。1人が作り出せるフィルターの濃さ、歪みの大きさには驚くべきものがあります。なんとかしてそれらをぶち壊したかったのです。

しかし、強い怒りを感じながら一貫してそれらの作業を進め、ふと気づいた時、周りにはもう変えるべきものはなくなっているようでした。気づけば、実に住みやすい、穏やかな環境にいました。おかしいと思ったことや、効率が悪いと思っていたことは全て変わり、やりたいと思ったことは大方やりつくしてしまっていたのでした。
日常は平和で、怒りがこみ上げるようなこともなくなりました。
しかし、そんな日々はえらく退屈でした。怒りを感じずにすむ、こんな状況を目指してきたはずなのに、刺激のない日常は、とても退屈でした。
自分は、ストレスを感じながら、その中でもがいていないといけないのではないか、と思いました。
自分はここにいてもいいのだろうかと思いました。
こんなに全てが自分の自由になって、そして今度は僕がブラックボックスになり、権力を作り出してしまうのではないかと思いました。自分の作った仕組みに慣れ、効率の悪いことをしているかもしれないと思うようになりました。
潮時ではないのかと思っていました。
こんなに協調性がなくてわがままな自分が、組織内でこんなに自由に生きていられるのは、今が変化の時代だからだろうと思いました。自分は常に境界線上に位置し、変化を作り出していないといけないのではないかと思いました。
そして、ここにいてはいけないのではないかとの思いが強くなってきていました。
このホームページにも、淡々と続いていく日常への苛立ちが散りばめられています。

そして、突然の異動でした。
一瞬のうちに上述のことがつながり、すぐに、そうだろうな、と思いました。
(それにしても、一瞬のうちに分かったことを文章にするとどうしてこんなに時間がかかるのだろう?)
他にも、具体性を帯びるので書きませんが、いくつかの断片的な象徴的な出来事が思い浮かびました。

つながっている。
変化の時は、世界が流動的、可変的に見えます。
自分と世界が双方向通信しているような感覚を覚えます。
呪術的な場に見えてきます。
それはインド以来のことです。

見方を変えましょう。
上で述べられていることは、きわめて主観的な思い込みに過ぎません。
全て知性の発達していない幼児の物の見方です。
客観的に考えれば、どれもそれほど珍しいできごとではなく、特別に偶然性が高いとも思えません。
悪化すると、分裂病的な妄想となります。
「全てが計画されている。」「仕組まれている。」「何者かが命令している。」、ここまでくれば立派な妄想ですね。
きっと、インドで精神を病んできたのでしょう。

もう1つ見方を変えましょう。
それはどちらも同じこと。
同じことを別の面から見たに過ぎません。
張り巡らされた言葉によって守られている、自我という構築物の下には、常にこのような流動的で呪術的で主観的な世界が繰り広げられているのです。
まだ自我が充分に形作られていない子供の心と、確かに同じものです。
詳しくは丸山圭三郎氏の著作を読んだ方がいいでしょう。

そうそして、僕はこの今までとは見え方の違う、流動的な世界を信じています。
そこは、硬直した生を逃れ、新鮮な感情を取り戻すことができる場所であり、神秘的な驚きを感じることのできる場所であり、硬直した日常を作りかえる可能性がある場所だと思います。
答えはどこか遠くではなく、自分の中にあるのだと思います。そして自分の奥底と世界はつながっていると思っています。

だから、多分僕はインターネットの可能性を信じています。
僕のこの饒舌な言葉が、届くべき誰かの元に届き、そしてひっかかった言葉の断片が新たな言葉を生み出すというわずかな可能性を信じています。

インターネットは奉仕の精神から爆発的に発達しました。
イデアを提供したものには、名誉のみが与えられます。そして大きな満足感が与えられます。
多分、そのことは世界が良い方に変わっていっているということの、ひとつの証です。
アイデンティティーなんてものは、ゲームをするための便宜的な役割分担に過ぎません。
全ての人が、互いに争わずに、1つの大きなものの発展のために協力できる世界があればそれは理想的な世界です。
だから、イギリスの資本家たちのように、アメリカの開拓者たちのように、ある日急に共有のものだったはずの土地に囲いをして、自分のものだという主張をするような出来事が、インターネットの世界に起こらないようにと願います。

だんだん宗教っぽくなってきました。
相対化します。
「全ての人が、互いに争わずに、1つの大きなものの発展のために協力できる世界」―それは、一歩間違えるとファシズムです。自己を集団の中に埋没する。自我の自殺願望。祭りです。クラブです。レイヴです。パラパラです。どれも今流行っています。危険です。
ファシズムなどと言うと、後から見るとどうしてあんな馬鹿なことを、と思いますが、そう思うことが危険なのです。自分は無関係、ではないのです。
当時あれだけ多くの人をひきつけたということは、それだけ大きい魅力を持っていたということなのです。当初はとても理想主義的な部分を持っていたはずなのです。そのことを無視すると、自分とは無関係だと思っていたことに、知らないうちに取りこまれているということになります。
全ての、自分とは無関係だと思うこと、物、思想に対し、一度は心を開き、共感し、そして離れるということをしないと、いつ、何にだまされるか分からないのです。
自己の個性を殺して大きな集団の中に埋没させてはいけないのです。個人に犠牲を強いる集団は柔軟性を欠き、狂気に陥ります。パラパラなんて最悪です。
個人が個人として個性を保ったまま、その個性ゆえに集団に対して貢献できる、そういう世界でなければいけないのです。
インターネットこそがそういう世界であることを、僕は祈っています。

って、結局アレです。
つまり極端なんです。
多分酔ってるせいです。
僕の前世は多分戦時中思想犯として逮捕された人なんじゃないかと思います。
いや、「はだしのゲン」の影響か?

いずれにしても、そういった意味で実用的な勉強でもしようかと思います。
それが多分過剰なエネルギーの最も有益な消費方法であり、世のため人のためであることでしょうから。