軽い鬱

 軽い鬱に入ってみました。
 いや、別に鬱というほどではないのですが、ただ、何をしても面白くないし、仕事をする気にもならないし、将来の目標もないし、楽しいのは食べている時と寝ている時くらいなのです。<そりゃあ鬱だ。
 このホームページにしても、なんのためにやっているのかよく分からなくなってきました。
 メル友でも作りたいのか?
 いや、そんなのテンションが高いのは最初の数回くらいで、次第に鬱陶しくなり、やる気がない文面になっていくであろうことは目に見えてます。
 ではアクセスを増やしたいのか?
 いや、カウントが増えて嬉しいのは最初だけで、きっと増えたらそれが当たり前になり、最初は一日に10もアクセスがあれば喜んでいたのが、一日に100を越えてもなんの感慨もわかなくなっていくインフレの法則が成り立つのはドラゴンボールを見るより明らかです。(全然達成もしてないが。)
 では、ふとした偶然でこのページに目をとめたインテリジェンス溢れる美女が、まあなんてクールで知的なページなのかしらん、きっと素敵な方に違いない、是非お近づきになりたいわ、アルタ前で待ってます。いや、別に僕はそんなつもりでホームページを作ったわけでは……いや、でも、そう?参ったなあ、あはは…。
 それじゃあただの妄想です。
 それとも、「僕はこのサイトに出会って眼からうろこが落ちました。運命が変わりました。これからは貴方のことを心の中で兄貴と呼びます。いやそんなことはともかく、お金を送ります。そうでもしないと気が済まないんです。」などと次から次へとざくざくお金が僕の口座に(以下略)
 …酷い鬱です。


 文章に引張られるということがある。言葉は常に選択的だし、論理には流れってものがあるから、どうしても流れに引張られて結論はひとつになってしまう。上記文章のごとく。いや、どこにも論理などないけれども。
 それでも文章は書くスピードで考えるから、いくつかの選択肢を少しは意識できる。これが話し言葉になるともっとひどい。話をしていて、自分でも予想していない結論に至ることなどはままある。本当は結論はひとつなんかではないし、言いたいこともひとつではない。本当は、「果てしない物語」のように、話は無数に枝分かれしていって、その先でそれぞれが育っていくものなのだ。ストーリーは常に並行している。言いたいことは様々なレベルで、いくつもあって、正反対のことがどちらも正しいということも多々ある。

 このところ文章が錯乱気味なのは、書くスピードで考えていないからかもしれない。おかげさまでタイピングスピードも速くなり、頭にちらと浮かんだことがそのまま反射的にテキストになるくらいになった。しかし、ペンが紙を捉えるような抵抗がなく、声帯にかかる力もなく、指も思考も上滑りして言葉はとめどなく溢れていく。しかし本当は考えるべきこともなく、伝えるべきこともなく、伝えるべき相手もいない。という文章もリズムに乗っているだけで、たいして内実もない。ただ言葉が意味もなく溢れ出し、脳内物質が溢れ出し、脳は熱を帯びて、そしてまた言葉が溢れ出してくる。
 そうそれがこのサイトの目的のひとつ。時に言葉が湧き上がり、内圧が高まり、それに耐え切れなくなって吐き出したい衝動に駆られるということ。過剰を放出したいという欲望。そしてその過剰とは、普段の生活の中で選ばれなかった言葉たち。相容れない部分。それを、別に誰かに伝えたいとか、理解してほしいとか、そんなことは今更思ってはいない。思ってもいないのにこうして言葉を並べていることの意味。それは単に人の目がある緊張感だけを求めているのかもしれない。自己完結してはいるのだが、その完結した輪自体を晒す事で緊張感を保つということ。(人に対する誠意が感じられないな。)そしてその時々で他人の目を意識したりしなかったり、元気だったり鬱だったり、狂ってたり冷静だったりする文章を書いていく。それはその時々の精神状態そのままで、それは常に僕が一貫していることを拒否しつづけているから。それは時間に縛られず、肉体に縛られず、常に軽くあるようにってことだ。(ってのが重い。)

 ズレだの過剰だのというものは、エネルギーの源になるものであって、それを何とか解消させようと、人は仕事なり趣味なり恋愛なりに力を注ぐのだろう。それはそもそも始めから間違った方向への努力なのだが、本当に、人が何かを望むときには決まってそれが何であるかが分かっていないのであって、それが手に入ったときに初めて自分が何を本当は望んでいたかが分かるのであり、そして決まって失望するものなのだ。人は常にないものねだりで、隣の芝生は青く見えつづけ、貸し出し中のビデオは決まって面白そうなのだ。
 社会全体が何かを追い求めていられた時代は非常に幸福であったと言えよう。まだ見ぬ理想を求めて、豊かな暮らしを求めて、走っていられた時代。ゴールとは常に先送りされるもので、それは虹や月を追いかけているようなもの。目指している時が一番楽しいのであって、到達した時そこにはたいしたものはない。過程に楽しさを見つけられなければ、生には不安な努力の持続と一瞬の脱力しかないのだ。そうそしてそれが分かりきった上で、敢えて目標を設定し、自分をゲームに駆り立てていかなくてはいけない。少なくともそこではスリルと興奮が味わえる。
 しかし、その原動力になるのが、繰り返すがズレや過剰や欠乏感で、それをこうして言葉にして吐き出して充足してしまったら、行動に移すべきエネルギーが足りなくなると。だから、つまらないと。鬱だと。そういうわけでやっと一周して最初に戻るのだ。