歴史〜堺屋太一を読んで

堺屋太一氏は頭がよい。
それは混沌とした状況に対し、歴史から大きな視点を持ち込んで、それによって流れを読みとり、方向を指し示すからだ。
その話を聞くと目からうろこが落ち、そうかそうだったのか、こんなに明白に目の前にあった事実が見えなかった自分はなんてボンクラな奴なのだろうという思いにとらわれる。


頭のよさのひとつのポイントは、どれだけ情報を取り込めるかということと、どれだけそこから捨てられるかということの両方の力なのだと思う。
そしてこの情報化時代、情報は買わなくても覚えなくてもタダで大量に手に入る時代にあっては、後者の方がより一層求められるのであろう。
まさに「捨てる技術」が大切なのである。
情報はいくら集めてもそれ自体では何も語らない。
集めれば集めるほど「今現在の現実」という混沌に近づいていくだけである。
情報という材料を使って何を作り出すかが重要なのだ。


言葉はその発生段階から取捨選択的である。
論理的思考とは、混沌の暗闇に一筋の光を照らし出す作業である。
つまり、光のあたらない部分は全て捨てるということだ。
また、どこに光を当てるかというのは言ってみれば根拠のない恣意的なものだ。
それはつまり「切り口」ということで、「切り口の新鮮さ」という評価基準がある以上、「対象の切り取り方は無限にあるが、どれが正しいということはなく、問題とされるのはそれが新しいかどうか、面白いかどうかだけである。」ということなどはきっと当然の常識なのだろう。


だから、堺屋氏がやっているような現状の分析とは、木材から仏像を作り出すことに近いのだろう。
つまりは一種のフィクションである。
木材の質も重要だが、それ以上に造形力が重要なのだ。
人間は混沌から形あるもの・意味のあるものを作り上げると安心し、快感を感じるものなのだ。(それは仏像から幽霊からUFOからビートルズにまつわる噂まで。)


歴史とは、混沌の中から伏線となる材料を拾い集めてストーリーを作り出すという、意外と恣意的、造形的なものであるのだろう。
(歴史と個人の人生の類似性は、どちらにも後から見ると大きな出来事には伏線となる出来事がある、ということが言えよう。別の方向から言えば、それが脳が世界を見る方法なのだろう。そして歴史も記憶もそうやって作り出されるのだろう。)
しかしそれは、今のように時代の転換期になって全ての枠組みが緩み始めないと見えてこないことなのだろう。
社会の枠組みが安定しているとき、歴史は明白かつ確実な一つの客観的事実であるかのように見えるものである。
個人の記憶が曖昧になり自我が揺らいだ状態を表現する作品が流行っているのは、(マトリクス、甲殻機動隊トゥルーマンショー、ブレードランナー…。このホームページ内もつながっている。)歴史の解釈が揺らいでいることときれいに対応している。


制度は「意志」の現れである。
制度は最初からあるものでも与えられるものでもなく、作り出すものだ。
様々なベクトルの混沌の中から作り上げるものだ。
当然、法律も歴史も人事も教育もみな制度なのだ。
それは前提となる意志/意識/エネルギーのベクトルが変われば当然変わるものなのだ。
それがまさに今である。
我々はなんと面白い時代に生きていることか。