V・E・フランクル
「それでも人生にイエスと言う」
フランクルは、ナチスの強制収容所に収容された心理学者である。
その極限状況の中でも、希望を失わず、そして自らの思想を深めていった人だ。
だから、解放された翌年に講演で話されたというこれらの言葉には異常なほどの説得力がある。
タイトルからして信じられないほどの重みがある。
「それでも」って、普通これ以上の「それ」はなかろう…。
最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。
人間はありのままの実存に連れ戻されたのですが、この「実存」とは、まさしく決断に他ならない
この決断にあたって、人間の助けになったものがあります。それは、他者の実存、他者の存在、つまり他者が示す模範です。というのも、存在はいつも、言葉より決定的だからです。
すべては、創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっているということです。
私は眠り夢見る、
生きることが喜びだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く―すると、ごらん、
義務は喜びだった。(タゴール)
「私は人生にまだ何を期待できるか」ではなく、「人生は私に何を期待しているか」と問うだけです。私たちは問われている存在なのです。
むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。
とにかくたった一つでも「道徳」があれば
生きるとは、問われていること、答えること―自分自身の人生に責任を持つことである。
困難になればなるほど、意味あるものになる可能性がある
「人生それ自体が何かであるのではなく、人生は何かをする機会である!」
(愛とは「恵み」であり、その恵みによって、)他の場合には活動によって手に入れなければならないものが与えられる。つまりそれぞれが唯一であり一回きりであることが実現される。
愛することによって、自分が愛する人がまさに唯一であり世界でただひとりだということが気づかれるということが、愛の本質なのです。
根拠が何もないということが、決断の根拠になるのです。この決断を下すとき、私たちは、無の深遠にさしかけられて宙吊りになっています。けれども、この決断を下すと同時に、私たちは超意味の地平にいるのです。
ただ自分自身の存在の深みから、その決断を下すことができるのです。
ひとりひとりが、とにかくどこかにだれかがいて、見えない仕方で自分を見ていて、ドストエフスキーがかつて言った意味で「立派に苦悩に耐える」ことを求め、「死を自分のものにする」ことを期待していると分かっていたのです。当時、だれもが、死が近くなると、そういう期待を感じたのです
人間の心も、少なくともある程度まで、ある範囲までは、「重荷」を担うことでかえってしっかりするように思われるのです。
人間の苦悩は比べられない
苦悩がその人の苦悩であることが、苦悩の本質に属しているからなのです。
「勇気」とは、神以外はもうなにもおそれなくてもいい、神以外はもうなにもこわいと思えないという感情なのです。
ここに残っているのはもう、ただひとつ、行動だけです。しかも日常の中での行動だけです。
最終的に大切なのは、この永遠が、時間に戻るよう私たちに指し示しているということです。時間的なもの、日常的なものは、有限なものが無限なものにたえず出会う場所なのです。
おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。ほんのささいな決断でも、きわめて大きな決断でも、すべて永遠の意味がある決断なのです。瞬間ごとに、一つの可能性を、つまりその一つの瞬間の可能性を実現するか失うかするのです。
すばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。