「トゥルーマン・ショー」

世間の評判がそれほどでもなかったのが驚きだ。
ヒットだった。

主人公はユーモア溢れたアメリカンナイスガイ。
しかし彼は生まれてからずっと、どんな時でもカメラに映され続け、その映像は世界中に流されていたのだ。
知らないのは本人だけ。
彼の住む街はセット。
奥さんも友人も隣近所も皆俳優。
台詞は全て決まっていて、ディレクターからは常に指示が出ている。
どんな場面でも、奥さんはカメラに向かってさりげなく(?)商品のPR。
彼が行く所全て、エキストラたちは「自然に」振る舞い、いないところでは準備で大慌て。
それらのさまは、ブラックだけどかなり笑える。
しかし、次第に何かがおかしいことに気づいた主人公は真実を求め始める。
そして、ついに嵐の中海に漕ぎ出した彼は、世界の果て―青く塗られた壁に―「コン…」と突き当たる。
そして、ドアを開け、見えない観客に手を振ると、外の世界に飛び出して行ったのだった…。

もう、どうしようもなく泣けるし、笑える。
なんか、世間では「プライバシーを暴き立てるマスコミへの批判」とか、「報道する側の倫理」とか、そういうテーマを感じる人がいて、なんかそれは逆に意外だった。
僕は当然主人公に感情移入したから。

恐怖と笑いは紙一重という意味で、怖いし笑える。
この監督は妄想に近い自意識過剰の思いを抱えてるのではなかろうか。
常に誰かに見られている…。

何かの「視線」を感じるというのは、誰でも程度は別として、少なからず感じていることではないか。
それは「(過剰な)自意識の目」なのかもしれないし、「(誰とも分からない漠然とした)世間の目」かもしれないし、「ご先祖様」かもしれないし、「神の目」かもしれない。もしかしたら、「マルコヴィッチの穴」から入り込んだ誰かの目なのかもしれない。
それらは、普遍的なものではなかろうか。

「常に存在する自分以外の目を感じられなければ倫理や道徳は存在しない。」という意味でも、「急にねあなたは言う『なんかに飼われていたみたい。』」(中村一義)という意味でも。

「圧倒的な他者の目」。
それは何であっても結局は同じことなのだ。
そして今やその「目」とは「テレビカメラ」である。
それが極端な形で表現されている。
そう、他者の目とは気のせいでも自意識過剰でもなく、まさしく自分以外の全ての人達の目なのである。
マスコミは批判の対象としてではなく、個人を超えて圧倒的に存在する外部の力の象徴として描かれている。と思った。

星新一か誰かの短編SFで、人間の生活が全て鑑賞されていた、というのがあったような気がする。
UFOは、猿山の猿―つまり人間世界を観察するための「ライオンバス」(例えが変わってるな…。)だ、というアイデアをどこかで昔読んだ。

そしてもう一つ、「唯我論」として。
世界は自分だけのもの。
「私が目を閉じれば世界は消えてなくなる。」…ということ。
(「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひく。」…ということとはちょっと違う。)

主人公の主観の世界は、作られた世界ではあっても、彼の周りの全ての人間は彼一人のためだけに演じているわけだから。
そして彼が生活をしているのはまさに彼だけのための世界なのだから。
視点を変えればまさに唯我論。

「この世界は自分だけのもの。」
それは当然であって、脳が作り上げた「世界」とは、脳が知覚しうる範囲内の「狭義の世界」だから。

そして、管理された安全な世界から外に出て行こうというテーマ。
この世界の外に別のリアルな世界があるのではないか。
「マトリクス」にも通じる。
この世界が例え作り事でも、誰かに管理されていても、バーチャルでも、楽しければいいじゃないか。何の不満がある?
―いや、本当の現実がどんなに厳しくても、真実が知りたいだけ。バーチャルではない、ざらざらした本物の現実の手触りを感じたいだけ…。
脳の作り出した言葉と自意識の網の目の迷宮から抜け出したい。
それは普遍的なテーマか。

現状に煮詰まった人、自意識過剰な全ての人に。