マルコヴィッチの穴

遅ればせながら「マルコヴィッチの穴」を観た。
幾人かに僕のイメージだと言われていたのだ。
一体どういうことだ?髪型のことか?失礼な、オレは額が広いだけだ!(被害妄想)
…とも思ったが、自分でもこれだ、とは思っていたのだった。

―で。
「確かに面白い。が、重い。」
思っていたよりも笑いの要素が少なかった。自分は不条理な笑いを期待していたのだと、後から気づいた。

あらすじは、「冴えない人形師グレイグ(ただし腕は素晴らしい。)は、就職先の7と1/2階にある天井の低いオフィスの奥で、誰もが15分間、俳優のマルコヴィッチ(実在)になれる(そして15分後にハイウェイの脇に落ちてくる)という穴を発見した。その穴を巡ってグレイグとその妻、そしてオフィスで知り合った魅力的な女性との間で繰り広げられる悲喜劇。しかしグレイグはやがて、マルコヴィッチの体を操る方法を身につけて…。『自分とは何か』という哲学的命題を投げかける、今世紀最後の問題作。」
といったところ。

前半の7と1/2階のオフィスでの不条理なやり取りとか、チャーリー・シーンが本人役で普通に出てくる辺りではなかなか笑えたんだけど、途中から結構シリアスになっていき、狂気の側に走っていく。

松本人志の笑いを見ても分かるように、「笑い」と「狂気」は紙一重であって、それを笑いの側に持ってくるものは「冷静で客観的な視点」(「ツッコミ」ともいう。)だと思うが、この映画では途中からバランスを取ることをやめ、不穏な空気が漂いだす。

5年前ならもっとバランスを取った感じの映画になりそうだが、極端に走るのは時代のせいか。
頭痛くなった。

テーマとしては、
「肉体は意識の乗り物に過ぎない。のかもしれない。」

「自我の見ている世界は全て自我の投影。なのかもしれない。」
(←マルコヴィッチ本人が自分の中に入ると、周りは全てマルコヴィッチというシーン。予告ではコミカルなシーンに見えたが、実際は結構不穏な狂気の世界だった。)

「自分だと思っていたものは、実は誰かに覗かれ、操られている存在なのかもしれない。」
(自分の中にいるもう一人の自分。どちらが「本当の自分」なのか。)

そして映画の中にこんな台詞が。
「赤ん坊の中に入ると、身動きが取れず、逆に取り込まれる。」
…これって、結局、霊の存在と生まれ変わりの思想のことを言ってる話だったのか?
重い…。