インドQ&A(2)  「今さらこんな日記に何の意味があるのか?」

今時海外旅行が珍しいわけでもないし、何年も前のこんな短い旅の記録が何か意味があるんだろうか。とは当然思う。

何か珍しさがあるとすれば、まずこんなに内向的で自意識過剰で虚弱な精神の奴がインドに行くというのが珍しい。
内向的…。普通はもっと地名とか歴史とか文化とか人とか食事とかそういったものに興味が向きそうなもんだ。しかし、日記を見ると、こいつはひたすら自分のことだけに興味があるらしい。体験したことによって自分が何を感じたのかとか、どんな意味を読み取ったのかとか、そんなことばっかりだ。旅のガイドとしての価値がない。


でも、だからこそ、多少古くても何らかの意味があるんじゃないか、とも思う。
どんな体験をしても、じきに慣れる。最初に感じたことと同じだけのことは、次には感じられない。
最初は全て意識し、緊張し、感動しながらやっていたことが、慣れると半自動的に、無意識でやるようになる。例えば車の運転なんかのように。
そうじゃなかったら、人は日々これほど多くのことはできないし、毎日しんどくてしょうがないのだが、慣れてしまうと、不安と緊張がなくなる代わりに、新鮮な感動もなくなってしまう。
だから、初めての体験をした時に、瞬間瞬間に感じたことを全てもらさないように記録したこの日記には、素朴で新鮮な心の動きが記録されている。


例えば、バナラシの夜の記録は、体験自体は実に陳腐極まりないものだろうが、こういった表現は他にはあまりないような気がする。古典的名著、「知覚の扉」に迫る何かがあるといったら言い過ぎだろうか。(言い過ぎ)
この種の経験には非常に個人差があるらしい。別にたいした変化もなかった人から、ただ楽しくなった人、ただブルーになった人。しかし、多分ここまで主観的にいろいろ感じた人というのは珍しいのではないかと思う。
「知覚の扉」のハクスリーは、非常に知的かつ芸術的センスの持ち主であったから、この本は非常に知的かつ客観的、科学的な内容であり、かつ芸術的な教養も感じられる。
当然、俺にそんなものは書けない。もともとそんな能力は持っていないから。


この種の体験においては、全く未知のものがどこからか突然現れるわけではない。
感覚が拡大し、もともと自分の内面にあったものが、フィルターが緩んで一気に流出するということだ。
そしてその時に明晰なままであるということ。
それが圧倒的なために、自分の中からでなくてどこか自分の外からやって来る考えであるように感じられる。
全く新しいことなんかではなく、もともと自分の中にあったものなのだ。ただその結びつき方が新しいのだ。(だけどそれも創造ではある。)

俺は人より内向的で自意識過剰で虚弱だったから、慌てふためきながら多くのことを感じた。まあ一言で言っちゃえば「○ッド○リップ」ってことなんだけど。
25円くらいで頭おかしくなりかけた(なった?)奴なんて、聞いたことがない。つくづく安い俺。


抑圧していた様々な内面的イメージが一気に流出し、意識に上ったとき、それは脳の許容量を超えていた。
カオス体験。
それは人間が本来誰もが抱えている過剰であり狂気なのだろう。
しかしコントロールされない原初のイメージは危険な状態、狂気そのものなのであって、人はそれが恐ろしいから、社会を作り、「記号論」で語られるように言葉を作り、「構造主義」で語られる構造を作り、「共同幻想」という共通のルールを作って、その枠の中に自分を閉じ込めて、自分たちをコントロールしてきたのだろう。
だから「私的幻想」とか「本当の自分」なんていうのは本当は危険なもので、管理されるべきものなんだ、という話にもなる。


秩序から離れてカオスに接し、そこから再び戻ってくるのが「通過儀礼」であるのならば、まさしくこれが俺にとっての――自分がなくなるまで酔ったりすることが嫌いだった俺にとっての、通過儀礼の記録なんだといえる。
(嫌な奴だ。つまり、コンパとかで自分をなくすまで酔いつぶれることは、通過儀礼なのだ。自分をなくすことを恐れて、自分をコントロールし続けようとか僭越なことを考えてたから、結局こんな極端な体験をする必要が生じてしまったのだ。)


しかし、極度に自分の内に沈潜した中で、どうも自分だけの世界とも言い切れない、ある普遍的な体験をしたのも事実だ。
井戸を掘り下げていって地下水脈に辿り着くという、村上春樹河合隼雄の語るイメージ。
ユングの言う共同無意識。
インド哲学ブラフマンアートマン。極小の中に極大が宿る。かもしれないってこと。
内的宇宙は、外的宇宙とつながっているのかもしれないってこと。
共時性
「つながってる。」ということ。


だから何の意味があるんだって言われると、別に何もないかもしれないけれど。