インドQ&A(1) 「なぜインドだったのか?」

 
三島由紀夫横尾忠則にこんな意味のことを言ったという。
「インドには行くべき時期がある。行くべきときにはどうしても行くことになるし、行くべきでないときには行くことはできない。そしてその時期はインドが決める。」と。
なんとなくそれが分かる。


いや、理由はいろいろあるのだ。
「訳のわからない義務感」とか、「人生の修行のため」とか、「ノリで」とか。
でも、結局、「運命だったから」としか言いようがない。
そしてそれがインドなのだ。


学生時代、周りには海外旅行くらいは行かなくてはいけないという風潮があった。
猛然とバイトをしては海外に飛び立ってゆく男たち。
ろくにバイトもせず、海外にも行かないような奴は根っからのダメ人間であるというムードがそこにはあった。(気のせいか?)
だが、私がまぎれもなくダメ人間サイドであったことは疑いようがない。
頭の中身がスポンジ状になるまで寝続け、夕方の薄暗い自部屋で目覚めては、また一日を無駄にしたか、という苦い悔悟の念。
そして現実逃避でまた寝た。


しかし、そんな思いを何度も繰り返し、ちょっと学生時代になんかやっとかなきゃなあ、との思いがついにスパークしたのが、卒業間際、大学4年の冬だったのだ。遅いよ。
しかし、ここまでひっぱった以上、後は「印度一人旅」クラスでなんとかポイントを稼ぐしかない。
「ニースにバカンス」とかじゃあ、かえって逆効果だ。勝ち目はない。
って、俺は誰を相手に戦ってたんだか…。


しかし、学生時代、周りにはなんだか常に、目には見えない敵がいたような気がする。
そしてそいつは、おまえは何者なんだと、おまえには何ができるのかと、おまえはどんな面白いことをやってるのかと、問いつづけていた。
いろいろなことをやったような気もするが、どれも中途半端で人に語れる程の知識も体験もない。
インドくらいには行っておかなくては「いけなかった」。


インドという場所は常になんとなく引っかかってはいた。
「日本を印度に、しーてしまえ!!」
と言えば元筋肉少女帯大槻ケンヂ氏の至言であるが、私は高校時代、筋肉少女帯のファンであった。それはもう、あらゆるバンドの中で3番目くらいに好きで(中途半端)、自虐的な感じとB級な感じに惹かれていた。
その中でも一際怪しげなムード漂うキーワードが「印度」であった。

「インド行きてー!!」
本当は全く行きたくなくても、とりあえずそう言ってみたくなるような魅惑的なムードがそこにはあった。
大学に私より一年早く入った同級生がもっとディープな筋少のファンで、彼は大学に入るや、1年目には既にインドに旅立って行った。
いや、勝ち負けで言えばこの時点で俺の完敗なんだが、その話を聞いた時にも、いつかはインドに行かねば、と思っていた。


後は細かい偶然の積み重ねだったりする。
運命的に定められている出来事には、アメリカ映画のように伏線がたくさん張り巡らされているものだ。 (…より科学的に言いかえれば、興味があるものは目につきやすいのだ。)
そして直接には、先輩がインドに行くことを聞いて、「じゃあいっしょに行くか、もしくは向こうで会いましょう。」と言ったのがきっかけだったと思う。
結局日程が合わず、別々に行くことになったのだが、一度口に出して宣言をすると、物事は勝手に転がっていくものだ。


より理屈っぽい理由もあった。
当時僕は、レヴィ・ストロースの「冷たい社会/熱い社会」という考え方が気に入っていた。
これは世界を「冷たい社会」と「熱い社会」とに分けて説明するもので、僕はこれで世界を理解したような気になっていた。

「冷たい社会」とは、「未開」とされている国だが、これらの国は、まだ西洋の社会に発展していない国なのではなく、そもそも別の仕組みの国なのだとされた。
これは西洋偏重の歴史観を相対化する意味もあった。
つまり、冷たい社会とは、「祝祭の時空」を持っている国であり、生産を行う日常の時間と、消費し秩序を逆転して解放する祝祭の時空の両方を持ち、このバランスによって安定を保っている社会である。ブラジルのサンバを思い起こせば分かりやすい。そこでは、日常の生産の場で作り出された歪みや過剰が一気に放出される。そしてそこでバランスが取られ、再び安定した日常の場に戻ることができるのだ。これは安定しているために「冷たい」社会であるという。


これに対して、「熱い社会」は「先進国」とほぼ重なり、社会の内部に様々な格差を作り出す装置を持つ社会を言う。学校の格差、会社の格差、さらに組織内部でも様々な差異を作り出す。その軋轢と、ギャップを埋めて上に行こうとするエネルギーを利用して社会全体が成長していくという仕組みだ。
「良い学校、良い会社へ。」、「世間並みの生活を。」…でも世間って何?みたいな。
逆に、祝祭の空間を持てなかったために、日常の中に祝祭の要素を取り込まざるを得なかった社会とも言える。


この方法で世界を理解しようとしたときに、一番分からないのがインドだった。
どうも、「熱い社会」ではなさそうだ。むしろ身分が厳密に細分化され、しかも固定的であり、どう努力しても上には行けないという、非常に静的な社会に見える。
そうであるならば、人は希望を失い、不満が蓄積し、弛緩した怠惰な社会になりそうである。
実際、インドに行くと社会復帰できない、という話も聞く。それは、緩みきってしまい、戻ったときに格差と競争のストレスに耐えられなくなるという意味だろうか。
しかし一方で、インドは世界一エネルギッシュな国だという噂も聞く。
一体どっちなんだ?
しかも乞食がうじゃうじゃいて数十人に取り囲まれるとか、川のほとりで僧が瞑想しているとか、道の真中に牛がいるとか、川を死体が流れてるとか、同時に糞尿も流れてるとか、その脇で平気で水浴びしているとか(どれもそれほど間違っちゃいなかったが)、一体どういうことだ!?と思っていた。
僕の理解を超えていた。まさに神秘の国だった。
だから一度自分の目で確かめてみなくてはいけないと思った。インドを理解できれば他の国は理解できるのではないかと思った。


つまり、理由はいくつも存在するのだ。
そしてそれらいくつもの理由が重なり合い、複数の流れが1つに結実していく。
それこそが、「運命」の現れであると言えるのだが、それが極端に現れがちなのが「インド」なのであり、それがまたインドの神秘であったりもする。