短編小説「転機」

状況が変化していた。
全くもって変わっていたのだった。
話が違うではないか。
こんなはずではなかった。
全然違うじゃん。
そう叫び出したかった。
しかしできなかった。
サラリーマンとして、それだけはしてはいけなかった。
組織に生きるものとして、それだけは、やってはならないことであった。
組織を守るためには、個人は捨て石にならなくてはいけないことがあるのだった。
三十年もの間、組織をタフに生き抜いてきた田中には、そのことが良く分かっていた。
だから、何も言わないことにした。
何も言わず、黙って机の上の割烹着を羽織り、三角巾を装着した。
この私が、今日から社食のご飯を盛り付ける係か…。


前月までの田中は、日々数十億の金を動かす程の重責を担っていた。
辞令を見て仰天した。
話が全く違うのであった。
サービス部門のトップに、という話だった。
社長直々の話であった。
「数十億どころではない数字を扱う仕事だ」ということだった。
ご飯粒の数のことであった。


正直自信がなかった。
やっていける自信がなかった。
当社の社食では、「白いご飯」と「麦芽入りご飯」の2種類があった。
また、「大きいお茶碗」と「小さいお茶碗」の2種類があった。
合せて4種類にも上るのであった。
さらに、それぞれ「大盛り」「普通」「少なめ」と盛り方が分かれていた。
掛け合わせるとその数は12種類にも達した。
それを、総勢1,000人にも上る社員全員について好みを覚え、適切なものを出さなくてはならないのだった。
全員に正しいものを出せる確率は12の千乗分の1であった。
天文学的な数字だった。
計算が不可能だった。
田中の暗算能力では、もはや計算することが不可能であった。
話が違うではないか。
田中は叫び出したかった。
自らの能力以上のことが求められていた。
ご飯が途中で切れたら、即刻クビであった。
余らせすぎても同様にクビであった。
すさまじいばかりの緊張感であった。
考えただけで胃がキリキリと痛み、加えて炊き立てのご飯のムワッとした臭いにやられ、田中はたまらずおヒツの中に胃の中のものを全て吐き出した。
古株のおばちゃんに思いっきり頭をはたかれた。
だが、何とかクビだけは免れた。
土下座だった。
恥も外聞もなく、厨房のコンクリートに額をこすりつけたのだった。
なんとしてもクビだけは免れねばならなかった。
家に帰ると乳飲み子が待っていた。
今ここで職を失うわけにはいかなかった。
なにより、ついに手に入れた憧れの仕事であった。
なんとしてでも、マスターしなくてはいけなかった。
ここが努力のしどころであった。


先月までは、数十億の金を動かす仕事であった。
現金輸送車のドライバーであった。
しかし根っから向いていなかった。
天性の方向音痴であった。
運転は大の苦手であった。
しかも時間にルーズであった。
遅刻は日常茶飯事であった。
全くの役立たずであった。
いつもクビギリギリであった。


その前は警備員であった。
これも向いていなかった。
人の顔を覚えるのが苦手であった。
挨拶もなく通り過ぎる無礼な人間がいたので羽交い絞めにしたら社長であったことも2度や3度ではなかった。
しかも羽交い絞めにしたはずの社長から投げ飛ばされた。
腕力はからっきしであった。
これも危うくクビだった。
首の皮一枚でつながっていた。


組織に入って30年。
そうやってなんとかタフにしのいできた。
小学校を卒業してすぐの入社だから今年で42になる。
働き盛りだ。
昨年子供も産んだ。
田中は未婚の母だ。
相手の男のことは良く覚えていない。
ひどく酔っ払っていたからだ。
多分、外国語をしゃべっていた。
国籍不明であった。
住所不定であった。
歌舞伎町で変造テレカを売っている人だった。
今時珍しかったのでつい声をかけたのがきっかけだったはずだ。
身篭った事が分かったが、面倒なので放っておいたら産まざるを得ないことになっていた。
その時、既に9ヶ月目だった。
子供の将来が不安である。
生活費を稼がねばならない。
今ここでクビになるわけにはいかない。
田中は必死だ。
田中さんは必死でがんばっているのだ。


そういう訳ですので、ご飯をよそってもらう際は、「ご飯の種類」、「お茶碗の大きさ」、「盛り方」の順に、はっきりと、大きな声でご注文頂きますよう、ご協力をお願いいたします。
また、途中でどちらかのご飯がなくなってしまうことがありますが、ご容赦下さいますよう、よろしくお願いいたします。
今後とも、ご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。


と、このようなお知らせが、今日社食に行ったら貼ってあったのだが、長いので誰も読んではいないようだった。
<了>