「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(フィリップ・K・ディック)

映画「ブレードランナー」の原作。
死の灰が降り注ぐ核戦争後の地球。(といっても舞台は1990年代だ!)人々は召使アンドロイドを連れて他の惑星に移住していた。残っているのは精神異常者を含めたわずかな人々だけ。そして、他の惑星から脱走してきたアンドロイドを狩るハンター達もその中のひとり。主人公は、それを飼うことがステイタスである、生きた動物を買うために、アンドロイドたちを「処理」していく。しかし、アンドロイドの性能が上がり、多くの人間の能力さえをも超え、人間との違いが限りなく少なくなってきた時、彼は今まで感じることのなかった迷いを感じるのだった…。」

非常に悪夢的だ。設定はしっかりしているように見えて、一番肝心な所がわざと曖昧になっている。つまり、アンドロイドが心理テストをしない限り、人間と全く見分けがつかないということ。有機的アンドロイドであるため、見た目は全く人間と変わらない。能力は人間より上だったりもする。何の目印もつけられていないし、人間を殺すことだってできる。人間のふりをして社会に深く入り込んでいることもある。そして偽の記憶を埋め込まれていて、自分でも正体が分からないこともある。
人間もアンドロイドも自分が誰であるのか分からなくなり、読者も何が現実なのかが分からなくなる。この、拠って立つ基盤がふいになくなる感じが不安を呼び、非常に悪夢的だ。

この人はSFとか、SF的アイデアが書きたいのではなく、別のテーマが書きたくて、その手段としてSFという枠組みを使っているだけなんだろう。そして書きたいことのひとつは、病的な観念なのだろう。例えば自我に対する不信。「自我とは実にもろいもので、それを支えるものは自分を知っている者の存在と記憶でしかない。」

いくつもの、示唆的なアイデアが散りばめられている。
人々が頼るもののひとつが「情調オルガン」。ダイヤルを回すことによって気分を自由にコントロールすることができる。(薬か。)
ひとつが、「マーサー教」。「共感ボックス」のレバーを握れば、接続している人全ての感情が一つに混ざり合う。(ネットか。)一人の老人が寂しい山道を延々と登っているビジョンが間近に見える、そしてそれは自分になる。頼る者はなく自分一人しかいない。あるのは共感のみ。背後からは目に見えない敵が石を投げつける。やがていつかは頂上に着く、しかしすぐに転落したそこは死の世界。やがてまた登山が始まる…。夢のような、人生の示唆のようなビジョン。
孤独な人が頼る、もうひとつが「テレビ」。ショーは一日中続く。ある日、人気DJはマーサー教が偽物であったことを暴く。…人気DJはアンドロイドだった。

アンドロイドと人間の違いは、「共感」できるかどうかということとされている。共感できることだけが人間の特徴であるということ。アンドロイドは、並の人間よりも頭が良いが、物事を抽象的に考え、共感することができなくて、どこか冷たい。そして生殖の能力がない。いろいろな比喩と捉えることが可能であろうが、例えば「新しい世代」の比喩であると感じた。

作者は、「他人に共感を感じられない奴は人間じゃない」と言っているのであって、「人間は本質的に孤独なものであるが唯一の慰めは他人の共感なのだ」とも言っているのであった。

解説に「ハッピーエンド」と書いてあったが、果たしてハッピーなものかどうか、「葛藤を感じつつも、逃げてきた8人のアンドロイドを一日で殺し、疲れ果てて帰宅すると、買ったばかりの山羊は、関係を持った女性アンドロイドに殺されており、それは別としても生きる意欲を失った主人公は一人、誰も人の住まない北に向かったのだが、そこで自分が、神である「マーサー」自身になったように感じ、絶滅したはずのヒキガエルを見つける。そうだ、神となった自分にはこのような奇跡が起こるのだ。激しく高揚して帰宅するが、それは電気仕掛けの偽物だった。落胆する主人公はしかし妻の見守る中、静かに眠るのだった。」…ってハッピーかな?ひとつのテーマとしての、「冒頭では破綻一歩手前だった夫妻が、最後にはここしかないとの慰めを見出す。」ってところがハッピーか。