決断

忙しさの中にまぎれて、テレビの中に、音楽の中に没入して、人は何から逃げようとしているのだろうか。
まずはスピードを早め、効率化を進めることに力を注ぐ中、何を先送りにしようとしているのだろうか。
何を見ないようにしているのか。

 
きっと、「決断」だ。
瞬間瞬間に試されているということ。
無根拠で無限大の瞬間が、永遠に続いている。
大多数の中に隠れようとしても、日々の忙しさの中に隠れようとしても、視線はどこかにかならずあって、常に誰かに見られている。


自己と直面して、何も根拠がない中で、あらゆる瞬間に決断をしなくてはいけない。
いくら忙しいふりをしていても、前の瞬間に規定されたまま、なにも変化を作り出していなければ、何もしていないのと同じことだということはどこかで気づいているから。我々は、ますます見えないふりをしようとする。
そして、忙しいふりをする。


だけど一度気づいてしまったら、逃げることはできない。
全ての瞬間に、選ぶべき選択肢は目の前に無限に広がっている。
そして選択した責任は全て自分ひとりにある。
みんなについていったとしても、人の陰に隠れようとしても、忙しくても、どんな状況にあっても、自分が選択した責任は全て自分ひとりだけにあり、その結果は全て自分に返ってくる。
過去に選択した結果としての現在がある。
現在に選択した結果としての未来がある。
やりなおしはできない。
永遠が生命に戻ることを要求する、不可逆的に流れる現実の時間の中で、我々はダイスを転がし続けている。


人は根拠なき選択を迫られる状況にあるとき、何か神聖な、神秘的なものの存在を感じる。
それは「人生」かもしれないし、「神様」かもしれないし、「ルール」かもしれない。
そこでは偶然に頼るしかない。
そこで、意味のないものに意味を見つけ出して、選択の助けにしようとする。
ゲンを担ぐ。
占いに頼る。
風水に頼る。
しかしそれを突き詰めていくと、世界は違った意味を持ちはじめ、呪術的な場所に変わって行く。


同時に、言い方を変えてみる。
世界の根拠は揺らぎ、永遠の自由選択が続く不安定な世界に変わる。
しかしその時、道しるべは偶然のふりをしながら、あちこちに現れる。
それに従えば、自然にそうなるべき道を通っていく。
後から見ればそれ以外に道はなかったかのように。
人生には伏線が張り巡らされていて、何度も同じテーマが繰り返され。
「天丼」(繰り返しのギャグ)が笑えるのは、人生がそのようにできているからかもしれない。
あるいは、世界は全ての瞬間に開かれている自由なものだと感じ、あるいは全ては圧倒的なものによって、予め全ての出会いと出来事が予定されているのだと感じ。
信じられれば光に守られていると感じ、信じられなければ仕組まれた罠にはまっていると感じ。
しかしそれらは全て視点が違うだけ。


「瞬間ごとの選択」。
選び、選ばされ、人生は転がっていく。