WORDS

「感銘を受けた言葉」を並べるというのは、「好きな音楽」を並べること以上に自分をさらけ出すことであり、非常に恥ずかしくも浅ましい行為である。

なぜならば、感銘を受けた言葉とは、たまたま全く見知らぬ思想が勝手にむこうから飛び込んできた、「ふーん、成る程上手いことを言うものだねえ」、というようなものではなく、元々自分の中でもやもやと言葉にならなかった思いを代わりに言葉にして言ってくれ、「そうか、そういうことだったのか」、という「目からウロコ」な気分を与えてくれるものであったり、もしくはすでに自分の中で言葉は出来上がっており、「こういうことじゃないのか」、とは思っているけれどもそんな話は普段あんまり人とはしないし、誰かの共感を得られた訳でもない、そんな時に正に、「そうだこれだ、自分と同じことを考えている人は他にもいるんだ」という共感と保証を与えてくれたからこそ感銘を受けたというべき、貴重なものなのであって、出会うタイミングが早すぎれば、「ふーん、そんなものかねえ、でもよく分からないね」で終わってしまい、遅すぎれば、「確かにその通りだが、この人は今さら何をそんなに分かりきったことを青筋立ててまくしたてているやら」、で終わってしまうという、偶然性にも左右される誠に得がたいものであると同時に、それだからこそ、それらの言葉はその時の自分にとって一番大切な、一番切実な問題であったりもする訳であり、つまりその人自身の最も深い部分である訳である。

つまりは、読書という受動的な行為も、自己表現となり得るということであり、しかも、自分にとっての一番深い部分を表現することになり得るということであり、だからこそ恥ずかしく浅ましい行為なのであり、そう考えると本を1冊であろうとも書こうと思う人というのはなんという大きな恥に耐えている人なのか、若しくは全くの恥知らずなのか、それとも恥ずかしさの故に嘘ばかり並べ立てているということなのか、あろうことか恥ずかしさ故に自分にとって最もどうでもいいことから順に書き連ねていくがために、これほどまでどうでもいい書物が世に溢れ返っているということなのか、いずれにしても常とは異なることよ、との感慨もひとしおなのである。

だからつまり何が言いたいかというと、これらの言葉は非常に個人的なものであって、僕には感銘を与えたけれども、他の人にとってはどうだか分からないよ、ということであり、更に言えばそれは作者にとっても同じこと、切実な思いで書いた言葉が読者にそのまま届いて、嗚呼なんと素敵なことか、という場合もあれば、勢いで筆が滑って、更には締切り間際で書く事もなく今更こんな紋切り型の手垢のついた表現、俺の美学には反するが背に腹は代えられぬ、やむ無し、との思いで書かれた言葉が思わぬ形で熱狂的反響を呼んで、こんなはずではなかった、うっとうしい読者だなあ、と思われるということも充分にありえる訳で、逆にそのすぐ近くに魂の全てを注いで練り上げた正に人類の至宝とも言うべき言葉が書き記されているというのにそちらには何の反応も示さない、こいつは一体何を見ているのだ?ということも充分にあるのであるが、一度放たれた言葉は既に読者のものであるからまあそれも仕方がないことだ、ということでもあるのである。

だからこそ、ここに並んだ言葉達の全てに感銘を受けたという人がいるとするならば、それはその作者をも超え、僕自身だとしか言いようがないということなのである。

ちなみに文が冗長なのは、今現在「町田康」を読んでいるからということと、照れ隠しということの両方の理由によるものであるのである。