インド旅日記(8) ガンガーのほとり(バナラシ(1))

バナラシ


4:30、昨日助けてくれたインド人が起こしてくれる。何から何までお世話になった。
ヴァナラシ・カント駅着。
同じ客車にいた日本人と行動を共にすることにする。Mさんという、25歳の、トラックを運転したり、国内のバイクの旅に出たりを繰り返していたという人。今回は半年の旅で、今は1ヶ月目だと言う。
まだ朝早いので、駅前の食堂でペプシを飲んで時間をつぶす。
それから、ツーリスト・バンガロー内の観光局へ。
朝食を食べ、観光案内が開く10時まで、今までの旅行について互いにしゃべっている。この時にひととおりしゃべったことで、その後旅のことをしゃべりたい衝動はなくなった。
天井には大きい扇風機がゆっくりと回る。清潔で静かな場所。外人がのんびりしている。時間があったらこういう所でのんびりしたいと思う。


観光局で地図をもらい、ガート(ガンジス川の川岸で沐浴ができる場所)の方まで一緒に行くことにする。
サイクルリクシャーをつかまえ、2人で15ルピーに交渉する。が、このリクシャーワーラーは老人で、すごく細い足をしていた。そして、それを見ているうちに、涙がにじんできた。
同情とかではない。すごく細い体で、何も言わずにペダルをこぐ後姿を見ていて、ただ涙が出た。
10ルピーずつ払うことにする。こっちにとってはゲームである値引きだが、むこうにとっては生活そのものなんだ。


バナラシは、陽射しが強く、埃っぽく、牛が多い。
声をかけてきた、片言の日本語と分かりやすい英語をしゃべる小さい男について行き、「BABAゲストハウス」という所に行く。
1泊80ルピーと高く(280円だが)、他に客もいないようで寂しかったが、Mさんがここでいいと言うので、屋上からガンガーも見えるし、まあいいかとその場は決める。
しかし、小男に仲介料を取られてるんじゃないかと不安だし、なんだか今さら部屋に扇風機を取りつけていたり、部屋を片付けていたりしてるし、他に客もいないし、大丈夫かよと思う。バナラシでは有名なゲストハウスに行って、もっと日本人と知り合いたいと思っていたので、さびれたところでちょっと不満が残る。
しかし、結局ここはいい所だった。静かで、清潔な場所だった。準備をしていたのは、まだオープン前だったからだ。宿泊料も、仲介料の支払いを断ったのか、80ルピーは定額だった。
オーナーは、(他に「BABA シルクショップ」をやっている人だと思うが、)静かで、にこやかで、誇りを持った人だった。子供も父親似で、素直で賢そうだ。片言の英語同士で、コミュニケーションも取れる。屋上でガンガーを眺めながら話したり、涼しい、部屋の前で椅子に座り、チャーイを飲みながら言葉を教えあったり。
このゲストハウスの最初の客になれたことは光栄だ。


Mさんと2人で街を歩き、ガンガー(ガンジス川)を眺める。
ジューススタンドで子供としゃべる。みかんをもらい、写真を撮る。
街の中心部まで歩き、郵便局で切手を買う。
ガンガーのほうに戻り、火葬場に出て、座ってしばらく眺めている。子供が寄ってくる。すごくかわいい。サングラスをかけさせたりする。
死体は金や赤で飾られている。あまりに平和で、のんびりしている。だから、強い陽射しの下、全く死の匂いはしないし、現実感はなく、のどかだ。
火葬場で働く人達も、のんびりしている。何をしているのか、ただ座って見ている人達もたくさんいる。噛みタバコを吐き出したりしながら。
俺らも、子供達としゃべりながら、のんびりと見物していた。
ここでは、自分が何者であってもいい。何か別のものにならなくてもいい。それでも、どんな人間にも、居場所があるように思えた。だから、すごく楽だった。


一度宿に戻った後、1人で買い物に行く。いきなり1軒めでブレスレットを15ルピーとぼられるが(他では4〜5ルピーで売っていた)、基本的には、アーグラーで聞いた通り、のんびりしていていい所だ。しつこい客引きもいないし、みんな暇そうで、ゆっくり会話も楽しめる。いつのまにかアーグラーで会った二人組のようになっていった。ストレートに笑えるし、文法を気にせず、まず言いたい事が口をついて出る。ここでは、Mさんがほとんど英語ができないこともあって、1人の時も2人の時もよく人と会話した。
向こうの人もあまり英語がうまくないから割と通じるというのもあるし、誰でもすぐに「Hello!」と声をかけてくる場所柄のせいもある。特に子供達がすごくかわいくて、すぐに「Hello!」と声をかけてきた。すごく子供好きになった。
夕暮れの屋上でゲストハウスの子供達としゃべる。彼らは片言の英語がしゃべれて、日本語も勉強したがっていた。言葉を教えあう。素直でかわいい子供たちだった。
屋上には野生の猿がいて、ガンガーが見渡せた。のどかだった。


Mさんと2人で、近くの安食堂へ夕食を食べに行く。ターリーが15ルピー。うまくはないが、量はある。
食事の後、ぶらぶら歩いていると、チャラスを売っている男が声をかけてくる。
Mさんと、
「どうしますか?」
「やりますか。」
ということで、買うことにする。
男の後をついて速足で路地を歩きながら、品物を受け取り、金を払う。やはり大通りでやり取りをするとまずいのだろうか。やけに細い路地を、民家のすぐ脇を通りながら、やり方を詳しく聞く。何でこんな奴に教えてもらわなければいけないんだとも思うが、素人(?)二人だから仕方がない。


部屋に戻り、僕の部屋で試してみることにする。
ナイフで細かく削り、タバコをばらしてそれと混ぜる。そしてそれをタバコに詰めなおす。
火をつけて煙を深く吸い込み、息を止める。二人で何度か回しのみする。
「どうですか?」
「別に、来ないですねえ。」
最初はそんなやり取りをしていたが、やがて僕の中でちょっとずつ変化が訪れる。
頭が、鉢巻状にしびれてくる。手足の一部がしびれてくる。それが全体に広がっていく。後頭部が冷たい。しびれは、酔いのように鈍くなくて、ざらざらしている。思考が速く回転する。フィルムの早回しのよう。滑らかだ。
以前聞いていた「視界が紫になる」という表現は分かる。視界は少し暗くて粒子が荒くなってくる。
だが、次第に不安が大きくなってくる。信用できる人といっしょにやった方がいいというのが分かる。一緒にいる相手が怖い。Mさんは笑っていない。じっとしている。最初からこういう状況を狙っていたのではないか。
理性は残っている。そんなはずはないと思う。写真も残ってるし、宿帳にはパスポートナンバーも残っている。だが、それでも怖い。自分の世界に入りこんではいけない。なんとか相手もトリップして欲しいと思う。日本人というだけで信用してはいけない。おかしい。最初から初心者を狙っていたんじゃないか?旅のベテランだというのに、何も分からないふりをして、今までついてきたのではないか。やろうと言い出したのも向こうだ。そして、僕だけ正気を失い、向こうは正気を保っている。僕だけが意識を失った後、金目の物を取られるのではないか。
なんとか理性が残っているところを見せようとする。そして、部屋を出ていってもらおうとする。
「そろそろ部屋へ戻りますか?1人になってみたくて…。」
必死でそう言う。ろれつが回ってないんじゃないかと不安だ。


一人になって一安心するが、次の瞬間、部屋の鍵が壊れていることに気づく。どこまでも仕組まれている。手が込んでいる。いやこれは単なる偶然だ、理性が訴える。
しかし、どうしよう。不安が渦巻く。
相手に気づかれてはいけない。オーナーを呼んで直してもらうか。しかし、うまく言えそうもない。
あせりながら、チェーンと鍵を組み合わせる。いろいろやっているとなんとか鍵がかかる。

これで何も不安はない。ベッドに横になり、じっとしている。
目をつぶり、耳をふさぐ。これは、人をハイにするようなものではない。単にその時々の感覚を鋭くするものだ。
不安をなくして楽しくなろうとすると、全身の血が逆流するようなサーッという感覚が広がる。ひどく酔った時のような感覚。
しかし、不安は、打ち消そうとしても一点から生まれ、そこを中心にして黒く渦を巻いて拡がっていく。楽しいことを考えようとする。しかし、打ち消そうとしても、思考のトンネルは2つに分かれ、どうしてもその一方にしか進めない。すごいスピードでそっちに進んでいく。自分を超えた大きな力に引っ張られる。コントロールができない。
理性的な意識は残っている。その意識が、今の自分に本当のことをひとつひとつ確かめていく。すると、答えが分かってしまう。知りたくないことも…。
僕は何を求めているのだろうか。何がやりたいのだろうか。大切なことは何だろうか。――僕は人を求めていた。本当に理解しあえるような人達を求めていた。
しかし、周りにいる人達は、ほとんどが僕には関係ない人達だった。
僕は今まで、本心をさらけ出すことをしなかった。いつも意味のないことをしゃべり、ふざけ、本当に大切なことは口にしなかった。理解しあうことをあきらめ、理解しあえないことを共有できる人だけを選んでつきあった。それが僕にとって一番深い共感だった。誰もが本音を語ることを暗いと言って嫌い、うわべだけの会話を交わす世界で、それを嫌悪しつつ、敢えてパロディーのようにそれをやってみせること。そしてどこかにズレの手がかりを残しておくこと。それだけが本当の自己表現だった。
知り合いの顔が一人一人浮かんでは消えた。そしてふいに小学校の時の初恋の人の顔が浮かんだ。今まで忘れていたというのに、ふいにはっきりと思い出され、懐かしく切ない気持ちになった。
幼い頃のある日、母と近所に散歩に行った。夕暮れ時で、小川に笹舟を流して遊んだ。美しい瞬間だった。だけど、そんな瞬間はすぐに去ってしまう。どうして時間は流れ去るのだろう。どうして人は歳を取ってしまうのだろう。どうして美しいものは一瞬で消え去り、決して手に入ることはないのだろう。
ひどく寂しかった。胸が苦しかった。


耳を押さえた隙間から、ビュービューと風の音が聞こえる。こんなに聴覚が敏感になるのだろうか。空気の流れる音は、常に聴こえているのだろうか。いや、これはさっきから街のほうから聞こえている、演説の声と音楽だ。その余韻だけが風の音に聞こえ、それ以外の音は分離して頭の後ろの方から聞こえてくるのだ。ぼんやりとそんなことを考えていた。
僕はインドで、独りきりだった。