インド旅日記(2) タイ、そして印度へ(バンコク〜デリー)

タイの街角



朝食は部屋で。卵料理にトースト、コーヒーなどとても優雅だ。普通に美味い。といってもファミレス並みか。
10:30、チェックアウト。
カウンターで地図をもらい、駅まで歩けるかと聞くと、やはり、遠くてとても歩けないと言う。
が、タイ人はどうやらあまり歩かないらしい。後から見れば、まともに行けば2時間ちょっとで歩ける距離だった。(というか、今になって思えば俺の方がどうかしていたのかもしれない。普通の人はそんなに歩きはしない。当時の俺にとって「2時間」は普通に歩く距離だったのだ。つまりは暇だったのだ。)


以前、海外旅行に何度か行ったことのある人から、国によってにおいが違うという話を聞いたことがある。タイの街は香料と食べ物のにおいがした。
日本の夏のようなむっとする熱さはないが、陽射しが強く、少し歩くと汗だくになる。
近くのam-pmに入ってみる。日本と同じようでいて、なにかが違うというこの違和感。しかし日本のコンビニも、外国人から見たらそうなんだろう。
ろくな地図もないままにとりあえず歩いてみる。
しかし、当然、じきに道が分からなくなり、その辺にいる人に聞く。軍隊の人だろうか、道端に立っている。彼はまったく英語が分からないようで、照れ笑いをしながら、近くの家の人を呼びに行ってくれる。
そこは割と大きい家で、金持ちなんだろう、奥から上品な女の人が出てきて、流暢な英語で(多分)話しかけられる。半分分からないながら会話を交わした後、親切に地図まで書いてくれる。


タイは古さの中に新しさがある、という最初の印象は間違っていなかったようだ。
ボロボロのビルがあるかと思えば、新築のそごう、マクドナルド、ケンタッキー、ダンキンドーナツ伊勢丹などがある。そこだけがきれいで違和感があるが、同時に安心もする。見慣れた場所があるというのは安心だ。これも、日本に来た外国人が感じることなんだろうか。
やけに豪華なそごうのエントランスで、野良犬がグダーッと寝ていたのも妙に印象的だった。


とある建物に入り、ゲームセンターに寄ってみる。一体どんなゲームがあるのかと思うが、結構普通。日本より多少遅れてはいるが、セガラリーなどがある。
これはもしかしてM物産のあの人達の仕事だろうか…。
就職活動でまず最初にOB訪問をしたのがM物産だったのだが、その時に会ってくれた人達が、アジアにセガのゲームを輸出していると言っていたのだ。そう言えば、若い方の人が、子供のころインドに住んでいたと言っていた。よく停電になったとか。なんだか偶然を感じ、世界は狭いのかもしれないと思う。


東急がある。紙コップのコーラが10バーツ。音楽テープは99バーツ、CDは400バーツ、Tシャツは100バーツくらい。シャツは350バーツとか。時計は、良い物は4〜5,000バーツはした。驚くほど日本と変わらない。
しかしその一方で、少し裏に行くと、古く、暗く、ごみごみとしていて汚く、妙に心惹かれる家々がある。
こういった古い建物に惹かれるのは、そこにアジア的な混沌を感じるからだろうか。アジア人としてそれが懐かしいのだろうか。それとも幼い頃はまだ周りにこんな古い建物が残されていたから、それが懐かしいのだろうか。
バンコクの風景は「古さの中の新しさ」というより、「アジアの混沌の中に入り込んだ西洋の資本主義」ということなのかもしれない。そしてそれは日本の数十年前の風景だ。日本で起こったことが、再び今タイで起こっているのだろうか。
商社やメーカーやデパートに勤め、商品が外国の街にあふれていくのを再び体験するのは楽しいのかもしれないと思う。それに、もうそれしかないんだろう。日本には物があふれかえっていて、これ以上必要なものはない。物を売るのなら、ないところに売るしかない。
資本主義は風景を作り変える。それが正しいことがどうかは分からない。ただ、変化を起こすことは、少なくともその当人達にとっては楽しいことだろうと思う。
そんなことを考えながらショッピングセンターを歩いていると、暗がりでボーっとした奴がふらふら近づいてきた。危ないなあ。と思ったら、鏡に映った自分だったのはショックだった。こんなに頼りなさそうなのかと思う。もっと気合を入れないといけない。危なくて仕方がない。


「Phycorogy Accosiation」という所があり、なんだか分からないが入ってみる。芝生があって広々とした所で、人が結構いる。タイは暑いが日陰に行くと急に涼しくなる。
夏の匂いがする。いくつかの夏の風景を思い出す。高校時代にアルバイトをしに通った、工場のある埃っぽい町や、模試を受けに行った大学の構内…。昔の夏の記憶の断片。
遠回りをしつつ駅に向かう。
途中、駅の場所を若者に聞くと、全く分からないようで、照れ笑いを浮かべられる。この辺は全く日本的だ。ガイジンに声をかけられると緊張するのだ。


駅に着いたのは14時ころ。しばらくは汗が流れ落ちる。
列車は15時30分発。なんと5バーツ。400バーツのタクシーとの差を考える。のどが乾き、4杯目のコーラを飲むと、缶で15バーツ。紅茶は12バーツ。物価が良く分からなくなってきた。ジュースも高級品なんだろうか。
列車は4人がけのボックスシート。リュックを席に縛り付け、隣りの人と簡単な会話を交わす。
走り出した列車から窓の外を見ると、進行方向の左側は、小さく古いアジア風の民家がびっしりと軒を連ねていた。軒先が線路のすぐ近くまで連なっており、中の様子が丸見えだった。庭先で洗濯をしている人もいる。生活を覗き見しているような感覚だ。
一方、右側の窓から外を見ると、線路と平行して高速道路が走り、向こう側には高層ビル群が見える。日本と何も変わらない、無機的な都会の風景だ。
この列車の左右の窓から見える景色のギャップが、タイを象徴していると思う。こんな極端さは日本では見られないものだ。今は変化の中にあって共存しているこれらの景色が、いずれは日本のように一つになっていくのだろうか。


空港駅には16時20分に着く。
最初は着いたことが分からなかった。窓からホームが見えなかったのだ。緊急停止かと思っていると、隣りの人が着いたことを教えてくれたので助かった。タイの人は英語が流暢にしゃべれるか全くしゃべれないかのいずれかだったが、その人は適度に分かるようで、ちょうどよかった。
駅から空港まではつながっていた。
空港内を歩いていると、飛行機で一緒だった大学生2人組に再び出会う。すごい偶然だ。彼らは前の便に乗る予定だったが、手違いで同じ飛行機に乗ることになったという。フライトまで一緒に行動することにする。
仲の良い2人だったが、強固な関係を保ったまま旅をしても、得られる情報は少ないのではないかと思った。日常の関係を持ち込めば、海外に行こうとも、景色が違うだけで日常の延長ではないのだろうか。まあ、それもいいのだけれども。
バーガーキングで遅い昼飯をとる。(夕方だが…。)108バーツ。


日本で会っても決して言葉を交わさなかったはずの2人組に別れを告げ、20時発のエア・インディア856便に乗る。ほぼ1時間遅れ。
乗り込むと、僕の席にはすでにインド人が座っていた。
あまりに普通に座っているので、何度もチケットを確認したのだが、間違いない。僕の席だ。いきなりか…。
近づいて「ここは俺の席だ。お前の席はどこだ?」と言うと、
「知らない。ここが俺の席だ。おまえの席はどっかあっちのほうだ。」
などとすっとぼけたことを言っている。全くどく気配がない。周りを見ても、機内はいきなりなんかくだけた雰囲気になっている。インド人って奴は…。
最初から負けるわけには行かない。急に強気になった僕は、
「ここは俺の席だ。でもお前はここに座りたいのか?だったら譲ってやろうか?」と、相手をにらみつけながら言ってみた。
すると、「やれやれ。仕方ないな。」みたいな顔をして立ち去った。悪びれる素振りすらない。
早くも先が思いやられる。ともあれ、正直ほっとした。


飛行機の窓から見えるバンコクの夜は、やはりなんだか物哀しい光の色をしていた。
疲れている。が、またビールなんか飲む。食事はカレー。うまい。これがインドで最高の食事になりませんように、と祈りながら。


やがて、窓の外にカルカッタが見えてくる。
ここで一度着陸する。2人組はここで降りるはずだ。彼らの方が一足先に未知の国に足を踏み入れるのだ。インドか…。とうとう来たか。なんとも言えない気持ち。興奮と不安。
ここでかなりの人が降りる。


再び食事が出る。
食事中、カルカッタで乗ってきた隣の人が日本語で話しかけてくる。蒋さんといって、台湾の商社の人だという。そう聞くと「商社マン」に見えてくる。「エリート」という感じではないが、がっちりとした体格の、優しそうな人。
俺は若く見えるらしく、卒業旅行だと言うと、高校のかと言われる。
いろいろと話を聞く。台湾のこと、語学のこと、大学のこと。
――台湾は日本の植民地だったから日本の教育を受けた人達がいる。若い人達も基本的には変わらない。日本を追いかけている。しかし文化は日本の真似ばかりで中身がない。
――(英語ができる人は多いが、)大学入試では別にヒアリングテストはない。入試は7月頃一斉に同じ日に行われ、その共通のテスト1回ですべてが決まる。批判はあるが、公平だと思う。
――台湾にもベビーブームがある。
など。


僕も、タイの発展と残された古い街について、感じたことを話す。
すると、「タイの発展はこの10年くらいだが、急激な発展に追いついていない。工事などが大変だ。治安が悪いから、街の奥のほうに行くのは危険だった」と言われる。
思慮のない旅のド素人であると指摘されたようで(実際そうだが)ちょっとムッとして、「昼間だったし大丈夫さ。」などと言い訳をしてしまう。


デリーに着くと、蒋さんが、「ツアーのバスがあるから一緒に乗りませんか?」と誘ってくれる。ありがたく受けることにする。
が、飛行機を降りると、日本人が別の所に固まっているのを見て少し不安になる。
同じ飛行機に乗っていた日本人は10人くらいだろうか。その人達といっしょに行動して仲良くなりたかったという思いもあるし、その方が安心だったとも思う。俺はたまたま隣に座った見知らぬ外国人を、日本語がしゃべれるというだけで信用してもいいのだろうか。(もっとも、この文章中の「外国人」を「日本人」に置き換えたとしても、全く同じことが言えるわけではあるけれども。)

入国手続きでぐずぐずしていたが、蒋さん一行は待っていてくれる。
英語もでき、旅慣れている蒋さんは頼もしい。そしてどうやら彼はグループのリーダーらしい。一行は女性を含んだ十数人の大きなグループだ。俺はグループを仕切っている彼の後ろから、こそこそとついて行くだけだ。


空港から外に出た時のインドの第一印象は、埃っぽさと暗さ。町全体が茶色い。思ったほど暑くはない。タイのような妙な懐かしさを感じることもない。ここはもう、僕の知らない場所だ。
一行にはツアーガイドのインド人女性がついている。彫りが深くて非常にきれいな人。身分が高いのだろうか、非常に上品だ。


マイクロバスに乗り込むと、前のほうで演説のようなものが始まる。それを隣の蒋さんが一部通訳してくれる。その言葉が、小声なのとバスがうるさいのと発音が今イチなのとでよく聞き取れないのだが、「中国との関係は緊張しているが、大丈夫。我々のこの視察が終わったら、共同声明を出す…。」というようなことを言っているような気がした。
そしてその後、「どんどん国の秘密が流れ出しています。」と蒋氏が笑いながら言ったような気がしたのだが、冗談なのか本気なのか聞き違いなのかすらよく分からず、蒋氏の顔からもすぐに笑顔が消えたような、微妙な表情になったような、ただそう感じただけなのかもしれないが、いずれにしてもその後何も聞けなくなった。
「これは何の集まりなのか?」、「何をしに来ているのか」など、いろいろ聞きたいことはあるのだが、なんとなく、ヤバい答えだったら怖くて、何も聞けなくなった。


黙って窓の外を見ていたら、妄想が膨らんでいった。
実はこのグループが商社というのはダミーで、蒋氏は蒋介石の子孫か何かかもしれない。政府の高官なのかもしれない。そして、政府のグループが隠密で視察に来ているのかもしれない。あるいは、武器を買付けに来ている商社のグループなのかもしれない。あるいは、さっきの通訳はただの冗談なのかもしれない。いや、やはり単なる聞き違いで、本当はそんなことは言われていなかったのかもしれない。
日本に帰ったら、台湾・中国・インド関係で何かニュースはなかったか、調べてみよう。


ところで、バスはどこに向かっているのだろうか。窓の外は真っ暗だ。今ここで自分が行方不明になっても誰にも分からないだろう。じっとりとした不安がよぎる。
どんなに疲れていても、不安と緊張で眠れない。眠ってはいけない。外国には、命に関わる不安がある。


そんな中、バスはホテルの前に無事、到着した。コンノート・プレイスの、1泊200ドルもする超高級ホテルであった。
とてもこんな所には泊まれないと言うと、蒋さんは安いところならYMCAがいいよと言って、ドアマンに言ってタクシーを呼んでくれ、タクシー代の交渉までしてくれた。本当にいい人だった。途中で正体を疑ってしまったけれど。
お礼を言って別れる。
タクシーは60ルピーで、YMCAへ。


もう夜遅くなっていたが、フロントの人がいる。
しかし、部屋はないと言われ(たのだと思うのだが)、愕然とする。途方にくれるが、しつこく「どこか泊まれる所はないのか?」などと聞いていたら、どういうことなのかは良く分からないが、(英語が通じなくて相手を怒らせるものの)ともあれ1泊350ルピーで泊まれることになった。
悩む前にあっさり決まったという感じで、空いてたのに信用されていなかったのか?などとも思うのだが、とにかく言葉が分からなくて、状況が全く理解できていないのだった。


部屋には簡単なベッドがある。天井には大きな扇風機がある。質素だが、清潔で落ち着く。
すぐに横になる。
とうとうここまで来た。だが全ては明日からだ。
僕は疲れで、すぐに眠りについた。