「崖の上のポニョ」

物語のパターンとしては、「出会い、別れ、再会する」というところで終わるはずだが、それから先が続いていく。だから物語は複雑になっていく。
宮崎氏はかなりいろいろなことを考えて作品を創る人だと思うけれども、「プロフェッショナルの条件」のインタビューなどを見ると、確実に「向こう側」からも情報を得ている人だ。だから自分が意識して考えている以上のものが作品に現れることもあるのだろう。自分でもよく分らないものを創ってしまうとか。そういう意味で、どこまで本人が明確に意識をしているか分らないけれども(恐らく半々だろうけれども)、この話は途中からは完全に生と死を巡る話になっていく。

嵐の夜、リサと宗助の別れが悲しいのは、リサが死に行くことが分っているからだ。
翌朝、崖の上の家以外は全て海に沈んでしまうが、古代の魚などが泳いでいるこの海はもう、死の世界とつながっている。
海の上で会う人々はどこか現実感がない。
避難途中の人々は大漁旗を掲げている。そしてなぜか軍隊調である。祭りも軍隊も死に近い。彼らは三途の川を渡っている途中なのだ。
そして子連れの夫婦。やはり現実感がない。避難中だというのにとてものどかだ。まだ死んだばかりで自分たちの状況がよく分っていないのだ。その中でなぜか赤ちゃんだけが不機嫌だ。唯一、自分のおかれた状況が分っているのだ。産まれたばかりで死んでしまった運命に対して、怒っているのだ。
しかし、最後に笑顔を取り戻す。生と死の間にいるポニョに理解してもらい、そして祝福を得て、笑顔を取り戻すのだ。
山の上のホテルのかんばんは水に沈んでいる。それは、ホテルがもはや安全な場所ではないことを暗示している。ホテルとそこに集まる人々の風景は、この世のものではない。天国とそこに集まる人々だ。
だんなたちも嵐の夜にすでに死んでいる。グランマーレに祝福を受けて、船の集まる天国へと向かっている。
死んだ人達は、誰もが皆同じように、水の上を一つの場所に向かって進むのだ。光ある場所を求めて進むのだ。

宗助とポニョは乗り捨てられたリサの車を見つける。荷物は残されたまま。当然、リサはここで死んだのだ。
そしてトンネル。この存在感と怪しさは圧倒的だ。まさに異界への入口。「千と千尋」と同じように、トンネルは異界への通路だ。生と死をつなぐもの。そして産道だ。「僕ここに来たことあるよ」と宗助。誰もが通ったことのある道。産まれた時に来たことのある懐かしい場所。しかしポニョは通ったことがない。だから「キライ。」懐かしさのない、ただ死へと向かう道。そして一歩ずつ、元の姿に戻っていく。
高台の公園には車椅子が並ぶ。皆、ここで命を落としたのだ。唯一生き残ったトキばあさんが、宗助たちを守ろうとする。そこにある無条件の愛。隠されていた母性。
しかし定めどおり、宗助たちは向こう側の世界に連れ去られる。世界を救うために、彼らは死ななくてはならなかった。
大きなくらげの下、水の中で歩けないはずの老人たちは子供のように走り回っている。産道を通ってたどりついた、ここは子宮の中。彼岸の世界だ。
グランマーレとリサはそこで、宗助たちのことを話し合っている。リサは幼い我が子の死を受け入れなくてはいけない。だから辛い。自分は死んでもせめて幼い我が子だけは、という個人的な願いは受け入れられない。世界を救うために、幼い命は犠牲にならなくてはいけない。
そして、生と死の間で交わされた約束。アダムとイブとなる約束。人類が死に絶え、文明の全てが水の底に沈み、古代の海に戻ってしまった地球上で、生まれ変わって、二人で全てをやり直していくという重い約束だ。人類の文明は大洪水によって一度リセットされ、ここから新たに始められるのだ。